犬も歩けば、棒に当たる。5109が動けば、6でなし。


 2000年10月11日。(昨年までは10月10日は体育の日、つまり、その休日の翌日ということになり振替休日でありました)  今年は平日で、私は埼玉県与野市(さいたま新都心)にある関東信越国税局の全国税関信地連の組合事務所へ出向いた。  午後2時から全国税関信OB会の世話人会があり、赤塚駅11時の普通列車で出発し、現地には開会定刻に到着する予定であった。
 さいたま新都心駅の有人改札口を擦抜けたところに障害者用の車椅子が有るのに気付き、その右側を通り抜けようとしたとき突然左腕を掴まれ、一瞬のうちに手の甲に痛みが走った。
 その時は「思わず何をされたか、何を口走ったか」定かでないが「おい・おい、えらいことになったぞ」といったような気がする。車椅子の婦女に爪を立てられ傷口からは血が吹出していた。
 付き添えの母親らしい婦人から「大丈夫ですか」と問われ、私は加害者の傷害の原因は何だろうか?。(いきなり他人に掴みかかり、爪を立てる凶暴性)が心配になった。
 そこで悪い病気(狂犬病等)でも有っては大変だと思って、小生は「傷はふさがるでしょうが、悪い病気はないでしょうね」とたずねた。
 その問答が「世話人会の会議も、私のスケジュールも無為になる」原因になってしまった。  今度は付き添えの母親が「この子を病気・病人扱いにするとは何事か」と怒りだした。  会議の始まる時間でもあるので私は組合事務所に急いだが、この母親は「近くに交番はないか」「私たちに暴言を吐いた男を許せない」と口走りながら、あとを付いてくる始末。
 駅西口と国税局の中間に「けやきひろば」があって、そこには交番があり、事情を話すつもりで立ち寄ったところが、被害者である私が「加害者扱い」になり、現場検証をするということで再び「さいたま新都心駅」の有人改札口に戻ることになった。  世話人会の松岡先輩に駅の近くで出会い、事件?の経緯を話して会議に遅れることを告げた。この時は午後2時15分だった。
 有人改札口の駅員の証言は、改札口に車椅子の親子がいたことやこの母親から「障害者交流センター」への道筋を尋ねられたことは確認したが、改札口での「傷害事件があったり、大声での暴言・暴行のやりとりはなかった」ということであった。  現場検証が終わって交番に戻るとき、担当の警察官が「相手の興奮が冷めれば落着するだろうから、余り刺激した言動を控えて謝ることにしてはどうだろうか」とアドバイスを受けた。そのことは同意した。
 新都心交番に戻って約1時間。双方それぞれの聞き取り調査が行われ、 埼玉県警では事故扱えにしないで、私が「大宮警察署長に始末書」を書くことで決着しようということになった。  始末書を書き終わったのが午後4時。世話人会議が終了の時間だろうと気になって携帯電話で組合事務所に連絡をとる。高橋十三二事務局長には組合事務所に立ち寄ることを告げた。
 4時20分頃になって、私の担当だった警察官と母子方の担当の婦警が悲壮な面持ちで戻ってきた。始末書の一節に「車椅子の病人を傷付ける言動を反省し、今後は気を付けますので、この度のことは、お許し下さい」と記述したことに、先方がケチを付けてきた。  始末書は「車椅子の病人」の部分をカットして書き直したが、相手方の主張は「この子を病気・病人扱いにするとは何事か」とか「病気・病人にしたのは、日本の社会制度が悪い」と言う始末。  こうなると交番の警察官も手に負えず大宮警察署に連絡したり、埼玉県警に「どう終始するか」伺いをすることになってしまった。
 私も堪忍袋の緒が切れたというか。「被害者は私の方だ。あなたの心は病んでいる」「黙って下手に出ればノボセ上がり、あなたは何様のつもりでいる」「私は大事な会議をボツにして付合っていたが、もう我慢ができない」頭に血が上るとはこのことだ。  「あなた自身が病人だ。人権侵害で告訴でも、暴力行為の訴訟でも受けてやる」と交番を飛び出したのが4時50分であった。
  開き直れば怖いものなし。 労働運動、民主主義運動の仲間がいる。
 交番の警察官には「会合が終わり次第、帰りには必ず寄ること」を約束して、組合事務所に辿り着いたときは5時を回っていた。  事務所には金子世話人代表のほか高橋、鱸、松岡、小林、福田、小田切、加藤のOB会メンバーが心配そうに待っていてくれた。私は今日、小半日の駅改札口での経過を報告した。  金子先輩には「お前が女に抱きつかれたって、世にも珍しい話だ」と冷やかされたが、みんなの顔を見て嬉しかった。     
   地獄で佛?とは、こんなことかなあーと思った。
 厭なことは「でも飲んで忘れよう」と表に繰り出した。私は警察官との約束と「始末書」のあと処理で気になることがあるので、交番に立ち寄った。あの母子は「散歩してくる」と荷物を置いたまま留守だったが、決着が付くまで帰らないらしい。  交番近くの「けやきひろば」の地階にある居酒屋で約1時間ほど酒を飲んでいると「そば坊」という店まで年輩の警官が呼びに来た。どうしても「母親が煩くて交番でも困っている」ということであった。

 ひとにやさしい新都心。
     こんな「さいたま新都心」で事件が。

 OB会メンバーは「始末書」を書いてしまっては、警察の思うままになる恐れがあるから一人では無理だということになった。私はを飲んでいたこともあって「警察でも留置所でも行きますよ」と開き直っていました。  仲間が一緒に押掛けては決着するわけがない。相手は益々興奮する始末で、大勢で「いじめる」とか、立派な社会人としての「恥を知れ」と叫くばかりであった。  誰かが云っていたように「社会的弱者を救済させろ」という運動のなかで、障害者擁護活動の一種のトロッキイズムではないだろうか。私も「幾らかの金銭でも出せば手を引く」たぐいでは無かろうかと思った。  年輩の警官は「私が水戸まで帰るのに時間的に遅くなること」を理由に仲裁してくれた。OB会メンバーも「ここは、ひとまず退散する」ことが肝要と相成った。また、松岡先輩には「その筋に手を回して、「始末書」の扱いは心配ないようにするから」と気配りをしてくれた。さらに、金子世話人代表と高橋事務局長には蕨駅周辺までご足労を掛けました。
 「禄でなしの一節」これにて一件落着。
 さすが、海千・山千の強者・全国税OB会メンバーの皆さんには大変お世話になりました。ご迷惑を掛けましたが、その後は検察からの訴訟や人権擁護委員会からの呼び出しもありません。  このことは10月22日の塩原温泉での「税制懇話会」の秋季研究会や11月12日の全国税「関信OB会」総会で世話人会メンバーに事後報告したとおりです。松岡先輩が云っていたように「幾らかの金銭でも出せば、手を引くたぐいでは無かろうか」と思ったが、私は妥協しなかった。
 昨今、薬害等での知能障害や社会的弱者といわれる障害者が数多く生まれていることはわかっているが、今回の場合は終始「私は被害者である」という立場で対応した。
 私が「始末書」を書いたのも、私の言動にによって「社会的弱者」を、より追いつめたという反省すべきことがあったからである。  ことばが凶器となる。改めて考えさせられた事件であります。       2000/11


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